賀来:他のインタビューでお話しされていた、“アクションシーンを作っていくときに、『北斗の拳』のケンシロウの手が画面の前に飛び出てくる感じに対抗するにはどうしたら良いか”というのに、「ガッツが斬ったときの相手の上半身を回転させる」っておっしゃっていたのが凄く面白くて。やっぱり『ベルセルク』で“回転する上半身”は物凄い発明だと思うんですよ。
三浦:当時の僕が好きだった漫画の『北斗の拳』や『聖闘士星矢』が出た頃の「ジャンプ」って、みんな漫画がそういう一芸を持っていて、漫画ってそうじゃないとダメなんだと思い込んでた部分もありまして。そんな中、自分が一番ショックを受けたのが『北斗の拳』のコマいっぱいの拳の表現なんです。あれって自分にとって漫画がアトラクション化した瞬間だったんですよ。今の3DとかVRが、自分にとってはあそこにあったんですよね。
賀来:僕にとってはまさにそれがガッツの横振りで斬られた、人間の回転する上半身と下半身で、もうそれこそアトラクション化した瞬間っていうか。
三浦:(笑)。だけどCGで何でも描けるようになっちゃってから、映像文化も含めてそういった“アイディア”っていう株がどんどん落ちちゃったんですよ。でも未だに“アイディア”というものの価値は色褪せないと思うんですよね。自分が大学の頃に『ターミネーター』とか『ロボコップ』がめちゃめちゃ流行ったんです。あれって「ロボットをどうやって描こうか」と思って人間が演じたわけじゃないですか。無表情のシュワちゃんと、『ロボコップ』の頭が回る動きとか…凄い説得力があったじゃないですか。あの気持ちを忘れたくないんですよね。絵に描けちゃったらOKじゃなくて、アイディアのもとから説得できるようになっているほうがわかりやすいし、いろんな人に伝わるので。自分はあの頃の、CGがまだ完成しきっていない時代にいろんな人が試行錯誤してできたSFとかが、結構未だに好きなんですよ。CGで飛ぶスーパーマンより、クリストファー・リーヴが糸でつるされて頑張っていたときのほうが(笑)。
賀来:どうやって見せたら本物っぽくなるのかとか、本物をかなぐり捨てて別の魅力をどうやって構築するのかといった、そっちのほうが面白く見えますよね。
三浦:新しい漫画を始めるときにそれをちゃんとやると、いい漫画になると思うんですよ。昔の「ジャンプ」の漫画家さんがやっていた、“一アイディア”とか“一インパクト”が必要なのではと思いますね。
賀来:おっしゃっている“アイディア”は、三浦先生としては絵的なアイディアがより強いんですか?
三浦:絵だけじゃないんですけどね。アイディアを考えるときって全部を総動員すると思うんですよ。ひとつ「これを目指す」と決めたら、絵的な方向からもアイディア的な方向からも、目標をひとつに定めていい具合にやっていく感じですよね。
賀来:同時に立ち上がっていく感じですね。なるほど…。でも、なかなか自覚的に「アイディアを今日生むぞ!」って思って作ることはできないじゃないですか。
三浦:ははは、そうですね (笑)。
賀来:アイディアの流れで言うと、ネームのことでいっぱい聞きたいことがありまして…!!まずネームはどういう順序で作られているんですか?僕はエピソード全体の流れを決めてから印象的なシーンを用意して、そこでキャラクターに言ってほしいセリフを、といった順番でネームを作っているんですが。
三浦:賀来先生と近いですよ。一番最初から最後までの大まかなものはなんとなく決まっているんですけど、章とか何部とかの「今回はこうしよう」というのを決めたら…賀来先生は次にセリフですか?
賀来:はい、次にセリフです。
三浦:僕はセリフは意外と後ですね。そして、ネームで困ったことはほぼほぼないですね。
賀来:えっそうなんですか!
三浦:キャラクターがその場にいると、なんかしゃべってくれるんですよね(笑)。さらに言うと、キャラクターがしゃべってくれるというよりは描いているうちに、「今回の漫画のテーマとか大事なことってこういうことなんだ」っていうイメージがだんだん固まってきて、そこにキャラクターが行くと、そのイメージを吸い上げてくれて、そのキャラクターらしい方面からネームを切ってくれるっていう感じですかね。最初から決め打ちせず、やっているうちに見えてくるっていうところがありますね。彫刻に近いんでしょうかね。
賀来:漫画の新しい区切り、新章などが始まる段階では、そこまでゴールというものがあるわけじゃなくて、ぼやーっとしていたものが徐々に形作られていく、という感じなんですね。
三浦:『ベルセルク』をやっているときに気を付けていることで…って言うほどのものじゃないんですけど、章ごとにやることに関して奇をてらわないってことを考えているんです。ファンタジーをやるとしたらお約束で通過しなければならないものがあると自分は思っていて、それが、簡単に言うと魔女とか宗教とか戦争とか、海だったら帆船とか。帆船に乗ったら海賊の幽霊船とかクラーケン、海の化け物が出てきたりとか。そういうお題は自分で決めていて、そこはいじらないんです。それらって、平凡だけどメジャーっていうようなことなんですよね、大枠としては。自分はそういった大枠に関してはまったく奇をてらわないようにしてるんですよ。キャラクターも個性があるので、細かいところにいけばいくほどそこからずれていくこともあるんでしょうけど。大きなところ、その寓話的な部分は逃がさないようにすると、メジャーなものができると思ってるんです。
賀来:細かいストーリーの中で奇をてらおうとすることはないんですか?
三浦:自分的には「めちゃめちゃ奇をてらおう」とは、あんまり考えたことないですけどね。最近の漫画って次はどうなるとか、実はこういう裏があったとか、どんでん返しがあるじゃないですか。自分はそこで読まそうとすると、頭使って面倒くさそうだなと思って(笑)。普通のことを過剰に描いたり、そういうことで魅せるほうがいいかなと。最初の頃って“黒い剣士が魔物を退治する”っていう簡単なコンセプトだったんですよね。まずやりたいこととして中二的な、みんな大好きなひねくれものの黒い剣士が活躍する話を描こう、と。そうすると、黒い剣士だからダークヒーロー的なものになるだろう、それでダークヒーロー的なものをやるなら戦う動機をどうしよう、正義のヒーローでもないしって考えたときに、一番腑に落ちたのが“復讐”で。でもあの義手とあの剣を探すまでにめちゃめちゃ時間がかかりました。最初は大砲じゃなくて鉄の腕に隠しボウガンが付いているとか、ギリギリ誰でも思いつきそうな辺りをウロウロしてたんですよ。剣も日本刀にしようかなって考えてみたり。あるときそこにガチっとはまっちゃったんですよね、あの剣の大きさが。そして剣が決まった段階で義手も大砲になったんです。ずっと考え続けて、正しいルートでここに置くっていうところに、頭の中に入っているいろんなものの中の「これがそうだったんだ」っていうのがポンッて現れた感じですかね。
賀来:なるほど…。今までの集積というか、これまで見てきたものとかの集まりみたいな話で、聞いてみたかったことがあるんです。僕は『ベルセルク』の活劇的な要素と、人間の心情を描いたドラマの要素との配分量が物凄く好きで。恥ずかしい話ですけど、僕の漫画が『ベルセルク』のようになれれば良いってぐらい好きなんです。
三浦:ありがとうございます、でもそれは踏みとどめましょう(笑)。
賀来:いーやいやいや、本当に僕はあのバランスが理想的だと思っていまして。そしてバランス感覚もそうなんですけど、相反するものの混在というか、例えばガッツとグリフィスとキャスカの関係性は少女漫画的だなって思うこともあれば、ロストチルドレンの章でのジルとロシーヌ姉ちゃんの話のラストの締め方が、世界名作劇場のアニメの終わり方のように感じたり。相反するものが組み合わさっているというのが……。
三浦:意外とね、反してはないんですよ。僕らの世代には出﨑統さんっていう偉大なアニメ監督がいらっしゃいまして、出﨑さんは『あしたのジョー』も作れば『ベルサイユのばら』も『エースをねらえ』も作っちゃうんですよ。みんな“出﨑色”で。原作漫画の『ベルばら』とか、『エースをねらえ』って、当時のガキんちょの僕には読解できないものだったんですね。だけど、それと『あしたのジョー』とか『ガンバの冒険』みたいな超劇画チックなものを出﨑さんはアニメで作れちゃうんですよね、同じタッチで。だから自分は自然に「できるんだ!」と思っちゃったんですよね(笑)。漫画だとやっている人いないなって思って、出﨑さんの影響でそのあと『ベルばら』とかを読んだり、竹宮惠子さんの作品とかを読んで、「素晴らしい!キュンキュン来る!」って。
賀来:あえて相反するものをぶつけてやれってわけではないんですね。
三浦:自然にやっている前例がアニメであったので、これはできるものだっていう確信がありましたね。だから、「いろいろ観ておくと良い」としか言いようがないかな。僕みたいな配分がやりたいんだったら、出﨑さんは観る価値ありますよ。『あしたのジョー』の中にもロマンチックなものも入ってるし、『ベルばら』の中にも迫力のあるものがたくさん入ってますから。惜しい人を亡くしましたね……。
『地獄楽』画眉丸 ラフ(賀来先生:直筆)